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日本人初メジャーリーガー

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1964年には日本人メジャーリーガーがいた


日本人におけるメジャーリーグのパイオニアと言えば、野茂英雄が有名ですね。
野茂がメジャーリーガーになったのは、1995年のことです。

でも、これより31年前に日本人で初めて投手としてメジャーリーガーになった男がいました。
それが、マッシー・ムラカミこと村上雅則です。

ここでは、その村上雅則の経歴について触れてみます。

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南海ホークスへの入団からアメリカ野球留学へ


村上は法政二高出身で高校甲子園で夏春連覇を達成しています。
当然エースと思いきや、この時の村上は控え投手で春の選抜で一度登板しただけでした。

しかし、南海の目に留まり、1963年に南海に入団します。
その翌年、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下1Aフレズノに野球留学します。

この時、ジャイアンツはメジャー昇格者が出た場合は、金銭トレード出来る契約としました。
南海はメジャー昇格者など出るわけないと思っていたため、異議を唱えることなくスムーズに
ジャイアンツと契約しました。

この契約が、メジャーリーガーマッシー・ムラカミ誕生のキーポイントとなります。

突然のメジャー昇格からデビュー


村上は英語が分からないため、辞書を用いてチームメイトと会話をしながら順調に成績を残していたところ
(11勝)、8月31日に突然メジャー昇格を言い渡されます。
そして、試合が行われているニューヨーク行きのチケットを手渡されます。
(メジャーリーグっぽいですね笑)

到着すると関係者から契約書を渡され中身も分からないままサイン。
そして、その翌日にニューヨーク・メッツ相手に初登板。
日本人メジャーリーガーの誕生の瞬間でした。

メジャーでの活躍、帰国


9月29日には中継として、9回の同点の場面から登板し、11回まで無失点に抑えて初勝利をあげました。
この年、村上は9試合に登板し、1勝1Sの成績を残しました。

翌年、主にリリーフとして活躍し45試合登板4勝1敗8Sという素晴らしい成績を残します。
この間、まだ人種差別が強く残っていたアメリカでは日本人を起用する監督に脅迫状が送られ、監督に
FBIの警護がつくこともありました。

その1996年シーズンオフ、南海が契約を反故にし帰国命令を出します。
当然、揉めることになり村上もアメリカ残留に気持ちが傾きますが、日本で村上を批判する気運が高まり、
結局帰国します。

日本での活躍


帰国の翌年は6勝4敗、その翌年は3勝1敗と思うように結果を残せず、批判を浴びることになりますが、
1968年に18勝4敗と活躍し最高勝率のタイトルを獲得します。

その後、南海でもリーグ優勝に貢献し活躍し、阪神、日本ハムと移籍し、1982年に引退。

日本では103勝82敗の成績を残しました。


アメリカでの成績、日本での報道


メジャー2年間での通算成績は、54試合登板5勝1敗9S 防御率3.64。
実質、1シーズン強でのこの成績は十分活躍した成績でした。

しかし、日本では当時東京オリンピックと重なってしまい、小さな記事の扱いだけでした。

それから、31年後野茂英雄のメジャー挑戦により、再び脚光をあびることになるのです。


戦後からわずか15年でアメリカ相手に活躍した偉大な日本人がいたのです。

(たまにメジャーリーグ中継の解説やってます)


参考Webサイト:wikipedia
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%9B%85%E5%89%87

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